始発電車に乗り、清澄白河駅で降りた。まっすぐ綺麗な直線に伸びて誰もいない道路、遠くで聞こえるエンジン音、街の鳥たちのさえずり、ほんの一瞬前まで氷だったように澄んだ空気、ビルの隙間から見える紫色の薄い雲、握っていた部屋の鍵を歯で咥えて、両手を自由にして、胸いっぱいの深呼吸しておいた。身体から毒が抜けて漂白された。まだ滞在して間もないが、この街が好きだなと思った。ここ数日は、自分の情緒の揺れを感じてしまうようになってきている。その時々で考えてることがバラバラになってしまう感覚、自分の感情や意思決定に一貫性がなくなる感覚。ずっと同じ問題の上で足踏みをしている。なんでこんなにふみふみする必要があるのかな。ふみふみしなくてもよい問題でこうもふみふみ。ふみふみに割く思考の処理スペースがもったいない。ふみふみ。足音がすごくうるさい。

人間とか世界とか、あるいは社会とか、そういうものを、自分が自我や身体(体調)に絶対的な安定のない存在であるうちに、考えてはダメだ。何故かこの言葉がしっくりくる朝だった。東京の満員電車に詰まった鬱憤すべてを、不味いサプリメントみたいに濃縮した。それでも足りなくて、自分の人生を悲観的にしたり、絶望的にしたりしてみた。自我のある自分、体調のある自分、意識がある自分、寿命がある自分が、邪魔だと感じた。それらがあれば、いつでも最善手を打てる気がする。未来に無限の可能性があるということは、同時に無限の絶望や後悔のルートもあるということで、その絶望への恐怖、焦燥、プレッシャーに日々負けそうになっている、自分を、諦めるということ。しかしまぁ、不安定な自我や身体を持っているのに、どうやって、客観的に人間や世界や社会を認識して、論述すれば良いのか。無限の可能性の中から、おおよそ最善のものを選択するには、どうしても、もう少し、人間や世界や社会について、知識が必要な気がしている。最善手とか、こうあるべきとか考えているなんてナンセンスだと、言われるかもしれないが、ある一つの地点までの最善手は常に存在すると思ってしまうので、まだ人間の楽しみ方をわかっていない。

出版社と煙草会社、就活における革命と意味付けについて

先日友達と会った。昔から本が好きな彼女が就活で忙しくなるこの時期、出版社に興味を持つことは容易に想像できた。「本の会社は終わる気がする」という世の中の流れに反発するのは楽しそうだ。しかし、印税という形で物書きに利益が回ってくるようなお金の回り方という意味ではもう、出版社がこれまで通りのやり方で生存することは難しいと思う。ただ、文字が作り出す物語の消費が終わるという意味ではない。1人の学生がもつ知識量で生まれる言語化できていない直感「絶対革命が起きるんだって!」は出版社固有のものではなく、万物が必ず持っているもの可能性の世界の話だ。しかし、そういう説明できない直感を信じて進むことを信念や野望というのかもしれない。市場が大きい、成長する、可能性がある、そういう意味付けは誰でもできる。自分のことを唯一無二だと思って幸せに生きるためには、彼女のように説明できないものを信じることが手っ取り早いという構造に人間はなっている気がする。そういう側面を踏まえると応援したい気持ちもあるが、「革命が起きると思うから」と根拠のない根拠を発生させて、正当化し、思考し尽くした結果これを選択をしたみたいな、地に足ついてない満足感は捨ててしまった方が、ありのままだと思った。話は変わるが衰退業界のイメージで、本と煙草は同じような状況にあると思う。煙草会社の利益が全て日本のマーケットで賄われていると思っている人は「でも煙草ってこれから死ぬ市場じゃんw」とよくいう。確かに、日本では肩身の狭い会社だ。でも、五感の一部を支配するパーソナライズされた娯楽のツールという意味では、かなりスマホに近い存在だと思うし、だらだらとSNSを徘徊している時なんかの状態は得る体験としてとても似ている。この今回はあえて明確に言語化しないがこの体験は古来人間が人間として生きる上で必要なもので、触覚・味覚・嗅覚領域でいうと、視覚や聴覚のスマートフォンバイスよりも煙草会社は大きなアドバンテージがある。デバイス系ハードウェア系、五感や体験に関する、M&A・研究所、そういう組織編成。煙草の会社はこれから、こういう風に革命を進めていくだろうと、そうすればめちゃくちゃ面白そうだなと、なんとなく革命理由付けはできる。未来に起きる革命の意味付けをすることを楽しんでも良いし、野望を信じて生きることを楽しんでもいい。就職活動なんて嫌な言葉があるけど、私は私が私である意味を探し続ける長い人生のほんと一つの選択だったと思うようになりたい。私にだって、革命が起きる可能性は十分あり、自分の人生に起きる革命という野望を持っていることが今の私はとても愉快だ。現代を生きる自分の価値観なんて何も参考にならない。いろんなアンテナをいろんなところにはって、自分の中の"体験"を豊かにしたい。

センシティブな内容な気がする。私の深いところにある、グツグツとした欲求や欲望を赤裸々に書いてみたいと思う。「恋愛やセクシュアルやジェンダーの話は複雑で難しい問題だ」と最近の世の中は言いたげだ。今日になって、なんだか急に仰々しく取り上げてきたなと。だけど、別に、対して、難しくないし、とても単純で簡単なことだと思う。個人単位で世界を見れば、好きなら好き・セックスしたいならしたい・振る舞いたいなら、そうすればいい。彼氏と彼女とか、男と女とか、そうやってなんの意味も持たない枠組みや制度や固定概念や、そういう社会のシステムみたいなところ、パートナーになった人との二人の関係の、外側にある、いちばんどうでもいいけど、なんとなく周りの人が大事なんじゃないかなとおもうところ、人間が機能的に生活するために必要である気がするという、誰にとって良いのかわからないが誰かが恣意的な理由で作った何かに縛られてしまうのって、人間として生まれたからには勿体無いことだと思う。個としての意思を持つことができる人間として生まれたのだから。これはセクシュアルやジェンダーに限った話ではない。職業や出身地や人種やファッションや、そういうところ、自分を表現するための要素全てに、風潮としてある。そういう世界に、私はとても違和感を感じる。人間はきっと個人単位で見ると本当にみんなユニークで多様性あふれるものなんだろう。でも、そのユニークさが平等にある生物だ。マイノリティとかマジョリティとかいうけど、皆が等しくマイノリティであるという認識の方がしっくりくる。それを体現できるような世界を作りたい。人間が人間らしく、今ここにいる私に生まれてよかったと思えるような、世界を創りたい。そういう欲望が私にはある。

新世界より"八丁標の外"という概念がソーシャルメディア(SNS)に近いなと思っている。ちなみにこれからここに書くことは論理的な文字の連なりじゃなくてポエムです。ポエムにすると、肝心なところを曖昧にしてしまって逃げれるから良い。良くはないけど、暮らしやすい。

自分の意識と向き合う自己内省や自己表現、これのエコシステムは、自己内省とか言いつつも、自分の中だけではなんだか上手く回せない。自分だけの日記を書き続けていたら、私は恐らく自意識が肥大しすぎてきっと隴西にいた虎になる。言語化、ポエムや日記や自己内省は、頭の中にあるもやもやな思考を一旦箱に閉じ込めて濃縮してキューブのようなチャンクにして整理することだ。私は思考が発散してしまうことが多いから、普通に生きていたら、考えなくてもいいようなことを色々と並列で考えてしまって手に負えなくなる。そこでこうやってポエムだか日記だか自己内省だかわからないが、言葉でキューブを作って、思考の発散を食い止め、同時に思考の圧縮訓練をしている。つまり、無意識世界にプールされているとりとめもない思考を、キューブにしてしまって、自分の世界のとは別の場に放出しておきたい。そして、同時に有象無象に対して注意を向けることで、自分の思考のキャパシティを狭くしておきたい。

整理しているのに散らかしてる気がするけど、これで大丈夫、雲を全部吸い取って空っぽにすることも動きを封じ込めてしまうことは不可能だから、それの流れを完全に制御したい、心臓みたいに。これがソーシャルメディアで言葉を連ねる意味の一つで、新世界よりの八丁標の内と外の関係性にとても似ていると感じた。うん、読み返してみたけど、やっぱりポエムだ。ポエムってずるいよなぁ。