私は一般に人間力と言われるようなものが恐ろしく未熟だと思う。体育会系の部活動精神みたいな、そういう目に見えないぼんやりとした人間としての正しい心のあり方が理解できないこと、そして仮に人間としての正しい心のあり方があったとしても、心のあり方だけでその人間や取り巻く社会が実際に"良く”なるとも思えなかった。つまり、精神論や武士道、思いやり、心の純粋さ、仁義、そのようなものは、あまり生きる上で必要がないものだと思っていた。なぜながら、そういうぼんやりとしたものよりも法律やルールなど明確な決まりごとやお金や資本などの明確な指標の方がより合理的で納得がいくものだったからだ。簡単にいうとすごく冷酷な人間で、極端に表現すると、「感謝の気持ちを伝えろと言われて、感謝の気持ちを態度や心で伝えるよりもお金や物をあげる」「もはや感謝とは何だろう、自分が受けた対価に対するリターンを相手にしてあげることであってるのかな?」みたいになってしまう。もちろん、全くわからないわけではないし、人間が社会でうまく生きていくためにはそういう馴れ合い的要素も必要だし自分もやはり人間なので、頭で並べている合理に反して、馴れ合いを求めてしまう。加えて、白状すると、人間としてかなり私は怠惰で欲望に忠実で、合理性のかけらもない。自分の内側について多くの人に話す機会が就活などで訪れる。そこで、大きな、私史上本当に大きな発見があった。私は、かなり無味乾燥で冷たくて合理的でないと納得できない頭と、過敏で欲望に忠実な身体と精神を持っている。私の国ではよく、頭でっかちな理想主義者がとても強い独裁を行っていて、過激で怠惰で欲に満ち溢れた一般市民がその統制に耐えることができず多くの活動家が声をあげ、秩序なく崩壊している。

 今日は友達に素敵な大人を紹介してもらった。香りの尖った赤ワインと霜降りのステーキがとても美味しかった。デザートのアフォガードのエスプレッソもコクがあって美味しかった。今日は彼の話を書こうと思う。元々私は顔が広くても心を許せる友人は少ない方で、その中でも彼は大学に入ってからできた唯一無二の親友だ。

 初めて彼に会った、というか話した時はビデオチャットだった。初対面にも関わらず最終的には、彼の恋愛相談にのっていた。他には、国内の国立大学に入学する前というのに、海外の大学に行きたいよねという話で盛り上がった気がする。私は、RCA(Royal College of Art: RCAはロンドンにある国立の美術大学で、世界で唯一、修士号と博士号を授与する美術系大学院大学)に興味を持っていると話した。彼はMITについて(私はなんとその時MITが何か全く知らなかった。本当に無知で狭い世界を生きた高校生だった)教えてくれた。今でも彼は私が「RCAを知っていてMITを知らなかった」ことをネタにしてくる。自分が興味を持っていることについてしか、知らなかったし、そもそもあの時の私は、知るすべを知らなかった。今はその時と比べるとかなり物知りになった。

 おそらくはじめはお互いにお互いのことを面白がった目で見ていた。二人とも本気で議論して、ぶつかり合って、傷だらけになる(これは私だけかもしれない)ようなことが好きだったからよくそういう遊びをしていた。バカなこともたくさんしたし、納得いかなくて嫌いになった時もあった。気付いた時にはなんでも、本当になんでも相談するようになっていた。大学内外でいろんな勉強や経験を経て変わりゆく私の価値観や変わらない部分をいつも横で眺めていて何かと助言だったり邪魔だったりしてくれる。私にとってRPGセーブポイントみたいな人かもしれないと思ったがそんな私にとってちょっと良さげなものにするのは気持ち悪い。概念としては、どちらかというとポケモンで定期的にバトルを申し込んでくるライバルのような存在かもしれない。もっとも同じ土俵で戦ったことはないが。

 彼は私が何をしても許してくれるし、何をしてもそのままでいてくれると思う。私の人生の意思決定で私に対する評価を左右させないと思う。そういう家族みたいな関係性になれて本当に良かったと思っている。

 もっと彼について、面白い話はたくさんあるのだが、眠くてよく思い出せない。今の段階で思い出せるのは、彼は27歳の人間全般が好きなことと、私と同じように身体とメンタルが弱いこと。素敵な奥さんと可愛い息子がいること、チームで仕事をする時の役割でいうと、三権分立でいう立法的な人(最近は日本の天皇のような象徴に近いらしい)。いつになるかわからないが、また改めて書こうと思う。

頻繁に頭が痛いし、体調が悪い。今日はヨガをした。いつもと違う感覚、具体的には自律神経の状態が悪いと感じた。こういう言い方はよくないとわかっているが、自分のことを不良品だと思ってしまう。自分の過去の恋愛について、振り返る機会がいくつかあった。過去の恋愛と言っているのだから、どれも現時点ではすでに過去のものとなってしまっている訳で、それはつまり、どれも上手くいかなかったものだ。恋愛について、自分以外の人の話だったとしても、不幸な話を聞くと、過去の自分の経験と重ね合わせてしまって、悪い気分になる。勉強や経験は積み重ねかもしれないけど、恋愛はその瞬間が全てだと思う。

 新しい時代になった。この国は、とても平和で豊かな国だ。もう、人間や動物や自然の、汚いところ、おぞましいところ、難しいところ、複雑なところ、それらを知らなくても何不自由なく生活することができるようになった。しかし、それは当たり障りのない生活に慣れすぎている私たちの存在の象徴のような気がして、少し怖いなと思うことがある。自分の脅威に対する感覚を、研ぎ澄ませないと、生ぬるい温度でふやけて腐ってしまいそうな気分になる。だから私は、時々昔のおぞましい事件や出来事について調べたり、グロテスクなものや、倫理観の外れた、刺激を求めてしまうことがある。

10日間もあるゴールデンウィークが始まってしまった。長期休暇がとても苦手だ。そもそも私はあまり休暇で体力を使うようなことはしない。私の休暇は、平日切り詰めていた神経を部屋でなだめている間にすぎてしまうことがほとんどだ。明け方の空気の細さを感じたり、安心してまどろみの中で過ごしたり。あとは、平日にできなかった、やらないといけないことをやる時間になってしまっているが、大抵目標としていた量をこなすことはできなくて、結局自己嫌悪が発生する。だから、長期休暇は躁鬱みたいになる。本当にこれだけは避けたいと思っている。しかし、最近まで休み方やストレスの発散の仕方がよくわかっていなかったんだと思うから自分の精神的成長を自分に見せつけてやろうという強い姿勢と意気込みをして、しっかり休んでやろうと挑んでいる。

誰かとの出会いも、何かに思いを馳せることも、かなり力を使ってしまうみたいだ。刺激の多い日々を送ると、めくるめく日々の中で自分の感覚が薄れて、ただパラパラと目の前で日常がすぎていくのを、身体の深いところにいる自分のもののはずの意識がぼうっと除いているだけだけになった。人間の言語の論理性や、欲望の非合理性、情緒の舵、安心した夜の過ごし方について、ぽつりぽつりと話すと、肯定も否定もせずに、そっかぁと聞いてくれる他人が近くにたまに居てくれれば、発散していく思考も少しは落ち着くのだと思う。私の場合は、助言や議論や批評があると、刺激が増えてしまい、また雲を集める作業が始まってしまう気がする。ゆっくりと、粘土を触りながら考え事をすることが今の私には適しているかもしれない、汚れたままの手でコーヒーを飲んでも許して欲しい。

ここのところ私は、時間をうまく守れなくなっている。これは私が心身ともに疲れていたり、思考が発散していたり、とにかく何かに追い詰められているときによく起こることだ。この後のフェーズとして人に迷惑をかけまいと何か約束をするの自信がなくなっていき、社会性のあるものに恐怖するようになる。あまりよくない傾向であることは間違いない。