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まおさかなのブログです。公開あんまりしていません。ブログ名とかコロコロ変わります。

自分らしさのジレンマ

お題箱を設置してみたら

  • 言い方を悪くすると学問をつまみ食いしてるようにも見えてしまうのですが、どれくらい1つ1つを厳密に勉強されてますか?

  • 学者は意味のない、繋がりのないけれど、斬新な新しいことを生み出す仕事をします。なので、その学説が世に認知されるまで数十年かかると、諸説(かの有名なピータードラッカー)

  • 貴方にお伝えしましょう 〜〜学を学んで長になって世の中に衝撃を与えて大成されているはいらっしゃいますか? それが学問です。結局は口だけなのは学問しかやらなかったやつなのです。 世の中に衝撃を与えるために、課題を解決するために、法律などの壁をくぐるための知識は必要ですが圧倒的にユーザーニーズやマーケティング、これは学校では教えてくれないし分からないことです。その証拠に世界で名誉を与えられた人々はみんな東大を出ていますか? 学問至高主義は、大企業に属するための学歴競争の手段に過ぎないのです

  • なんか意識高いけどアウトプットが無く学問に固執しすぎてるのでは?学生起業家の方がアウトプットを出して学問の壁を超え世界をリードしてるように思えますが...一方クリエイターや起業家などイノベーターというのは何かと何かを結びつけて衝撃を与える仕事をします貴方は学問を至高しているので、前者を目指してるのだと思うのですが、妙に華でありたいという欲求が見えます。いったいどちらなのでしょう? 前者なら矛盾したように後者の中に意見や見解を混ぜるのは、おかしいと思いますよ

お前が今やってる学問学問いうのクソだわ!ワロタ!

とか

学問つまみ食いフラフラしてアウトプット全然できてないじゃないか!

みたいな意見が多くてマジでびっくりしました。主に九大生が多い私のフォロワーにこのような大学の勉強をディスる系の人がいるとは。

まぁ実は意外と怒っていなくて冷静に「あ〜面白いなぁ私って他人にこんな風に写っているのかぁ〜」と眺めていました。 (好意的なメッセージもたっくさんいただいてて心暖まったし自身にもなりました。ありがとうございます。)

何はともあれ、自分の「自己像」ツイッターのフォロワーの「まおさかな像」のギャップがあったのです。

自己とは

こうなってくると面白くて、自分らしさって何だろうという問いが浮上します。

私もすべての情報をツイッターで発信しているわけではないですし、フォロワーさんの指標って偏った意見になっていてもおかしくはないですよね。 しかし、過激なフォロワーさんの頭の中にも「まおさかな」の像が存在します。

それは「私」でないと言い切っていいのか。

自己と他者について

私は自分について考えるときに他人の指標をとても大事にします。何故ならば、自分の存在は他人に認識されて初めて証明されるものだからです。

どんなに私の中で作り上げられた「自分像」が存在しようともそれは私の主観的な評価に過ぎず、私がどのように評価されるか、印象付けられているのかを推測するには他人から見た私を覗き込まないといけないからです。極論を言えば、他人の中にしか本当の私はいないのです。

自分らしくあるとは

こうなってくると「自分らしさ」を保持することは非常に難しい。他人(との関係性)の中にしか自己は存在しないので、他人に当たる人物が変われば自分も変化します。

どこからが自分なのか他人なのかわからなくなってしまいます。他人の中に自分が溶けるような感覚を味わい苦しい思いをしたことはありませんか?

ここで自分を見失わないように考えたいと思ったことをあげます。

  • 他人とは「大衆を含まない他人」にする。大衆の集団知的なものを他人とすると本当に自分が綺麗さっぱり無くなってしまうから。
  • 自分らしくあるということは自分がこれかなって思う評価を信じることなんじゃないかなと思う。自分というものを定義づけてその枠組みを必死に守ろうとすることではない。

自分という存在を守るということ

上記の2点。他人の侵食から私たちは自己を守っていかなければなりません。SNSで、ネット上での人格が統一化しつつあるという論文も出るくらいです。私はこれをSNSで「大衆」を意識しやすくなっているからかなと思ったもします。 自分の存在意義を守り、自分らしさを考え続けながら、他人の中に自己を見出す。意味わからなくなってきましたね。それでは、良いツイッターライフを!