苦しい,苦しいからやめて,私から私を逃がしてくれ,お願い許して,ずっと考えながら,この情緒を出来るだけ押さえ込むために,難しい勉強をしながら夜を越し朝を迎えた。こうやって情緒に振り回される日は,病的な睡魔が必要で,底がない水中に沈んでいく死体のようにならねば眠れないことを私は知っている。身体と意識を一度強制終了させないと,苦しみを終わらせることができないことを私は知っている。

 面白いことに,”苦しかった”という叙情の記憶はあるのだけれど,その時の叙情が,ただのチャンクになっていて,もう生の状態で開封することはできない。ただの苦しかったという記憶のチップになって,保存保管されている。消費期限のある情緒のことを,気分というのであれば,気分はものすごく意思決定や幸福受容に大きく影響力を持っていて,自分に一貫性を持たせることが難しくなってしまう。連続的ではない,積分不可能な,自己概念,それは果たして,『私』と呼んで良いのか。お前は一体誰なのか。

 最近自分の意思や感情や気分や思考が,現実世界を生きる自分のものなのか,妄想世界を生きる自分のものなのか,曖昧になって,溶けて,わからなくなっている。不快とか病的とか,精神異常とかの自覚症状は全くなくて,むしろ現実を妄想とも捉えられるし,妄想を現実とも捉えられて,都合の良い解釈,生産性の高い解釈,心的負荷の低い解釈ができるから,むしろ,心は健康になっていると思う。こうやって,文章を書いている時が,一番その気持ちが強くなるから,私の日記は,同時に小説になっている。