新世界より"八丁標の外"という概念がソーシャルメディア(SNS)に近いなと思っている。ちなみにこれからここに書くことは論理的な文字の連なりじゃなくてポエムです。ポエムにすると、肝心なところを曖昧にしてしまって逃げれるから良い。良くはないけど、暮らしやすい。

自分の意識と向き合う自己内省や自己表現、これのエコシステムは、自己内省とか言いつつも、自分の中だけではなんだか上手く回せない。自分だけの日記を書き続けていたら、私は恐らく自意識が肥大しすぎてきっと隴西にいた虎になる。言語化、ポエムや日記や自己内省は、頭の中にあるもやもやな思考を一旦箱に閉じ込めて濃縮してキューブのようなチャンクにして整理することだ。私は思考が発散してしまうことが多いから、普通に生きていたら、考えなくてもいいようなことを色々と並列で考えてしまって手に負えなくなる。そこでこうやってポエムだか日記だか自己内省だかわからないが、言葉でキューブを作って、思考の発散を食い止め、同時に思考の圧縮訓練をしている。つまり、無意識世界にプールされているとりとめもない思考を、キューブにしてしまって、自分の世界のとは別の場に放出しておきたい。そして、同時に有象無象に対して注意を向けることで、自分の思考のキャパシティを狭くしておきたい。

整理しているのに散らかしてる気がするけど、これで大丈夫、雲を全部吸い取って空っぽにすることも動きを封じ込めてしまうことは不可能だから、それの流れを完全に制御したい、心臓みたいに。これがソーシャルメディアで言葉を連ねる意味の一つで、新世界よりの八丁標の内と外の関係性にとても似ていると感じた。うん、読み返してみたけど、やっぱりポエムだ。ポエムってずるいよなぁ。