出版社と煙草会社、就活における革命と意味付けについて

先日友達と会った。昔から本が好きな彼女が就活で忙しくなるこの時期、出版社に興味を持つことは容易に想像できた。「本の会社は終わる気がする」という世の中の流れに反発するのは楽しそうだ。しかし、印税という形で物書きに利益が回ってくるようなお金の回り方という意味ではもう、出版社がこれまで通りのやり方で生存することは難しいと思う。ただ、文字が作り出す物語の消費が終わるという意味ではない。1人の学生がもつ知識量で生まれる言語化できていない直感「絶対革命が起きるんだって!」は出版社固有のものではなく、万物が必ず持っているもの可能性の世界の話だ。しかし、そういう説明できない直感を信じて進むことを信念や野望というのかもしれない。市場が大きい、成長する、可能性がある、そういう意味付けは誰でもできる。自分のことを唯一無二だと思って幸せに生きるためには、彼女のように説明できないものを信じることが手っ取り早いという構造に人間はなっている気がする。そういう側面を踏まえると応援したい気持ちもあるが、「革命が起きると思うから」と根拠のない根拠を発生させて、正当化し、思考し尽くした結果これを選択をしたみたいな、地に足ついてない満足感は捨ててしまった方が、ありのままだと思った。話は変わるが衰退業界のイメージで、本と煙草は同じような状況にあると思う。煙草会社の利益が全て日本のマーケットで賄われていると思っている人は「でも煙草ってこれから死ぬ市場じゃんw」とよくいう。確かに、日本では肩身の狭い会社だ。でも、五感の一部を支配するパーソナライズされた娯楽のツールという意味では、かなりスマホに近い存在だと思うし、だらだらとSNSを徘徊している時なんかの状態は得る体験としてとても似ている。この今回はあえて明確に言語化しないがこの体験は古来人間が人間として生きる上で必要なもので、触覚・味覚・嗅覚領域でいうと、視覚や聴覚のスマートフォンバイスよりも煙草会社は大きなアドバンテージがある。デバイス系ハードウェア系、五感や体験に関する、M&A・研究所、そういう組織編成。煙草の会社はこれから、こういう風に革命を進めていくだろうと、そうすればめちゃくちゃ面白そうだなと、なんとなく革命理由付けはできる。未来に起きる革命の意味付けをすることを楽しんでも良いし、野望を信じて生きることを楽しんでもいい。就職活動なんて嫌な言葉があるけど、私は私が私である意味を探し続ける長い人生のほんと一つの選択だったと思うようになりたい。私にだって、革命が起きる可能性は十分あり、自分の人生に起きる革命という野望を持っていることが今の私はとても愉快だ。現代を生きる自分の価値観なんて何も参考にならない。いろんなアンテナをいろんなところにはって、自分の中の"体験"を豊かにしたい。