人間とか世界とか、あるいは社会とか、そういうものを、自分が自我や身体(体調)に絶対的な安定のない存在であるうちに、考えてはダメだ。何故かこの言葉がしっくりくる朝だった。東京の満員電車に詰まった鬱憤すべてを、不味いサプリメントみたいに濃縮した。それでも足りなくて、自分の人生を悲観的にしたり、絶望的にしたりしてみた。自我のある自分、体調のある自分、意識がある自分、寿命がある自分が、邪魔だと感じた。それらがあれば、いつでも最善手を打てる気がする。未来に無限の可能性があるということは、同時に無限の絶望や後悔のルートもあるということで、その絶望への恐怖、焦燥、プレッシャーに日々負けそうになっている、自分を、諦めるということ。しかしまぁ、不安定な自我や身体を持っているのに、どうやって、客観的に人間や世界や社会を認識して、論述すれば良いのか。無限の可能性の中から、おおよそ最善のものを選択するには、どうしても、もう少し、人間や世界や社会について、知識が必要な気がしている。最善手とか、こうあるべきとか考えているなんてナンセンスだと、言われるかもしれないが、ある一つの地点までの最善手は常に存在すると思ってしまうので、まだ人間の楽しみ方をわかっていない。