誰かとの出会いも、何かに思いを馳せることも、かなり力を使ってしまうみたいだ。刺激の多い日々を送ると、めくるめく日々の中で自分の感覚が薄れて、ただパラパラと目の前で日常がすぎていくのを、身体の深いところにいる自分のもののはずの意識がぼうっと除いているだけだけになった。人間の言語の論理性や、欲望の非合理性、情緒の舵、安心した夜の過ごし方について、ぽつりぽつりと話すと、肯定も否定もせずに、そっかぁと聞いてくれる他人が近くにたまに居てくれれば、発散していく思考も少しは落ち着くのだと思う。私の場合は、助言や議論や批評があると、刺激が増えてしまい、また雲を集める作業が始まってしまう気がする。ゆっくりと、粘土を触りながら考え事をすることが今の私には適しているかもしれない、汚れたままの手でコーヒーを飲んでも許して欲しい。