愉快にお酒を酌み交わすことが好きだ。自分が生きる世界の出来るだけ奇妙なところを,苦味と圧力のあるアルコールを舌で転がし,丸くしていく。時に,現実を俯瞰しながら,自分を卑下しながら,他人を嘲笑いながら。すると全て,愉快な物語の1ページになっていく。酔っ払った私はあまりに愉快になり,「今の私は何者でもなくて,これから夜の街で素敵な出会いをして,新しい世界を見つけてしまうんだ!」と本気で妄想してしまう,いや,本気なので妄想ではなくて,企んでしまう。何年かお酒を飲んだり,バーで働いたりしているはずなのだけれど,私の"飲酒"イメージは,中学生の頃に読んだ,森見登美彦の「夜は短し歩けよ乙女」の中の世界観から抜け出せていない。憂鬱な現実とは一線を引いた,下手に飾り付けられたわけでもない,踊り出してしまいそうな,重みはあるが軽やかな,丸みを帯びて,使用感があり愛着の湧く,マイルドだけど狂気がある,愉快なあの世界が大好きだ。いつか,偽電気ブランの飲み比べに勝利したいと思って,最近黒髪にした。

いつもより熱いシャワーを長めに浴びた。自分が言葉にしたいことを上手く言葉にできずに,考えるべきところで考えることができずに,自分自身に絶望した。自分の頭の中まで綺麗に,熱湯で洗い流したい。思えば私は,あらゆる『テスト』が,おおよその私が芽生えた17歳ごろからとても苦手だ。日常から切り離されたほんの一瞬で,母集団自分のうちからサンプリングされ,これが君の全部だよと説明されることに,とても心的負荷を感じる。テストを上手くこなせないからなのか,負荷があるから上手くいかないのかはわからないが,負の影響を与え合っている。自分の能力の限界を簡単に知ってしまうので,苦しくて苦しくて仕方がなくなる。 この感覚は,Higgins(多分1987くらい)がいうところの,理想自己と現実自己の差異が主に抑うつや不安と関連しているというSelf Discrepancy理論から説明できる典型的な"情緒"だ。こういう時の,心はすごく邪魔で,消えて欲しい。とにかく,心の声がうるさくなってきたので,せめて何故そこまで煩いのか知るために,この理論についてのミニレビューを読んだ。加えて,Self Discrepancyから不安感情を発生させないためには肯定的自己複雑性を高めることが有効であると書かれている論文を一通り読んだけど,そんなの知らねえ俺は実力で差を縮めてやるとなった。でも,こうやって何かについて夢中になって探求している時は情緒の声が雑音のようになるから,上手く飼い慣らせるようになってきたのかもしれない。自己概念が多くの側面から成り立っている自己複雑性が高い状態に置きたい。でも,人間社会(コミュニティ)の中でそれを作るのはすごく苦手で余計火種になるから,もっと私は何かモノで自分を表現しならないと思った。ピアノや書道や,美術や文芸を必死にやっていた中高時代は,頭の中に悪い臭いのヘドロはなかったと思う。

一生懸命になる。熱中する。本気になる。人間関係が関わらないところで,そうなりたい。思えば,人や何かに恋をすることは私はとても上手でも,そのままずっとそれらを長く愛することできていないかも知れない。私には,大人の気分を味わいたかった子供の,どっちつかずで,中途半端で,曖昧なものしか残っていない。おそらく,他人の目線を気にしすぎていたからだと,目先のことしか見ていなかったからだと,自分に焦りすぎていたからだと,思う。さぁ,地球という星にはたくさんの人間がいて,それらの生物としての本質は同じで,評価なんて概念はちっぽけなものだけれど,この人間はどうやって自分を満足させることができるのだろうか。人間関係が関わらない,他人がいない,自分だけの地球を私は獲得したい。

家族の繋がりは,「身体」を受け継いでいるから特別なのかも知れない。人間の心は,中身は,外的要因でどうにでも変化してしまい主体性はない。身体は外的要因で然程変えることができない。この世界で唯一身体が主体的な私を証明してくれる存在かも知れない。その身体は家族によって後継され続けている。でも,結婚をして家族になるものには,身体的な繋がりがない。いっそのこと,大切な人と家族になるときに行う紙面上で契約をする結婚という制度は破棄され,身体的な繋がりを強制的につくってしまう契約があればいいのに。