私は一般に人間力と言われるようなものが恐ろしく未熟だと思う。体育会系の部活動精神みたいな、そういう目に見えないぼんやりとした人間としての正しい心のあり方が理解できないこと、そして仮に人間としての正しい心のあり方があったとしても、心のあり方だけでその人間や取り巻く社会が実際に"良く”なるとも思えなかった。つまり、精神論や武士道、思いやり、心の純粋さ、仁義、そのようなものは、あまり生きる上で必要がないものだと思っていた。なぜながら、そういうぼんやりとしたものよりも法律やルールなど明確な決まりごとやお金や資本などの明確な指標の方がより合理的で納得がいくものだったからだ。簡単にいうとすごく冷酷な人間で、極端に表現すると、「感謝の気持ちを伝えろと言われて、感謝の気持ちを態度や心で伝えるよりもお金や物をあげる」「もはや感謝とは何だろう、自分が受けた対価に対するリターンを相手にしてあげることであってるのかな?」みたいになってしまう。もちろん、全くわからないわけではないし、人間が社会でうまく生きていくためにはそういう馴れ合い的要素も必要だし自分もやはり人間なので、頭で並べている合理に反して、馴れ合いを求めてしまう。加えて、白状すると、人間としてかなり私は怠惰で欲望に忠実で、合理性のかけらもない。自分の内側について多くの人に話す機会が就活などで訪れる。そこで、大きな、私史上本当に大きな発見があった。私は、かなり無味乾燥で冷たくて合理的でないと納得できない頭と、過敏で欲望に忠実な身体と精神を持っている。私の国ではよく、頭でっかちな理想主義者がとても強い独裁を行っていて、過激で怠惰で欲に満ち溢れた一般市民がその統制に耐えることができず多くの活動家が声をあげ、秩序なく崩壊している。