不思議な夢をみた。

ぬるい空気。ゆるい服。中途半端な明かり。そこにゆっくり時間が流れていたけど、私の心臓だけはギュッと苦しかった。凹凸が少ない楕円形の、3人がけの硬いソファーが2つ連なった6人乗りの空飛ぶ乗り物、前列の運転席でハンドルを握って限界に近い速度で移動していた。恐ろしいものに追われていたので、目的地である塔の麓に到着しその乗り物から飛び降りた。硬くザラザラした赤黒い地質で傾斜の激しい道がありの巣のように複雑で、縦にも横にも深い。でも天井はなくて、空は高くその土地そのものが高いところにポツンと浮かんでいるような、場所にいた。建物の中を歩くと、鍾乳洞のようにひとつひとつに部屋があることがわかった。パステルカラーの羽毛ぶとんやリボンやレースが詰まっている部屋の壁一面のガラスから淡い水色の空と薄い雲を見つめて、やっぱりこの鍾乳洞は空に浮かんでいることを再認し、地上がみえなことに恐怖した。

部屋に入って、自分のパソコンを開いた。仲間の状況を確認しながら計画を立てていた。知り合いのようだが、あまり好感を抱いていない、ある男が部屋に入ってきた。声をかけて、「君のidを知ってから、君が登録している情報をハッキングして、色々みたんだけど、君ってすごく面白いね。」と言われて、すごく不快になりもっとその男のことがさらに苦手になった。

いつでも、本に埋もれてみたいなとは思っている。しかし、本を読むことは得意ではないし、今まで本をちゃんと読んだ経験は実のところ本当に数えるほどしかない。とても苦手だ。でもどうしてか、本をたくさん読む人と気が合い、仲良くなることが多い。「君も僕らみたいな本の虫でしょう?」と言わんばかり。言葉や文章は好きだ。馴染みがある。ネット小説が好きで、青年期は、陳腐で低俗な文字の連なりの中から少しでも知性を感じるものを探すように、たくさん読んでいたことを今でも、本と習慣の話題について考えるときは思い出す。それが知性や教養みたいなものに結びついていたかどうかはわからない。

情緒の雑音を消すために大きな音で再生していた音楽や誰かの物語が、逆に自分の情緒のノイズになっていて、ぼーっとしてしまう。時間がいつもよりはやく過ぎ去っていってしまい、体調を崩してからそれに拍車をかけた。具体的に言うと、30分の体感が5分くらい。周りと自分の時間の感覚がずれると結構苦しい。生きていると言うことが、意味がわからなくなる。

せっかく美しく用意した私の舞台が台無しになってしまった。おそらく美しく用意しすぎて、その舞台にたつ不完全で未熟な私には、扱えるものではなかったのかもしれない。もう思考が麻痺したり揺れ動いたりぼんやりとしてしまうの感覚が薄れてしまっている。あの劇場は過去のものになってしまった。もう私だけでさえも戻れない。この類の物語に触れることがもう楽しくなくなってしまった。忘れ物は捨てよう。

専らFacebookを見なくなった。そういえば殆どinstagramも同様にアクティブユーザーではない。両者も健康被害が大きいと言われるSNSだ。たまに思い出したように写真をいくつかアップロードしたり、人の投稿にコメントしたりする。

始発電車に乗り、清澄白河駅で降りた。まっすぐ綺麗な直線に伸びて誰もいない道路、遠くで聞こえるエンジン音、街の鳥たちのさえずり、ほんの一瞬前まで氷だったように澄んだ空気、ビルの隙間から見える紫色の薄い雲、握っていた部屋の鍵を歯で咥えて、両手を自由にして、胸いっぱいの深呼吸しておいた。身体から毒が抜けて漂白された。まだ滞在して間もないが、この街が好きだなと思った。ここ数日は、自分の情緒の揺れを感じてしまうようになってきている。その時々で考えてることがバラバラになってしまう感覚、自分の感情や意思決定に一貫性がなくなる感覚。ずっと同じ問題の上で足踏みをしている。なんでこんなにふみふみする必要があるのかな。ふみふみしなくてもよい問題でこうもふみふみ。ふみふみに割く思考の処理スペースがもったいない。ふみふみ。足音がすごくうるさい。

人間とか世界とか、あるいは社会とか、そういうものを、自分が自我や身体(体調)に絶対的な安定のない存在であるうちに、考えてはダメだ。何故かこの言葉がしっくりくる朝だった。東京の満員電車に詰まった鬱憤すべてを、不味いサプリメントみたいに濃縮した。それでも足りなくて、自分の人生を悲観的にしたり、絶望的にしたりしてみた。自我のある自分、体調のある自分、意識がある自分、寿命がある自分が、邪魔だと感じた。それらがあれば、いつでも最善手を打てる気がする。未来に無限の可能性があるということは、同時に無限の絶望や後悔のルートもあるということで、その絶望への恐怖、焦燥、プレッシャーに日々負けそうになっている、自分を、諦めるということ。しかしまぁ、不安定な自我や身体を持っているのに、どうやって、客観的に人間や世界や社会を認識して、論述すれば良いのか。無限の可能性の中から、おおよそ最善のものを選択するには、どうしても、もう少し、人間や世界や社会について、知識が必要な気がしている。最善手とか、こうあるべきとか考えているなんてナンセンスだと、言われるかもしれないが、ある一つの地点までの最善手は常に存在すると思ってしまうので、まだ人間の楽しみ方をわかっていない。

出版社と煙草会社、就活における革命と意味付けについて

先日友達と会った。昔から本が好きな彼女が就活で忙しくなるこの時期、出版社に興味を持つことは容易に想像できた。「本の会社は終わる気がする」という世の中の流れに反発するのは楽しそうだ。しかし、印税という形で物書きに利益が回ってくるようなお金の回り方という意味ではもう、出版社がこれまで通りのやり方で生存することは難しいと思う。ただ、文字が作り出す物語の消費が終わるという意味ではない。1人の学生がもつ知識量で生まれる言語化できていない直感「絶対革命が起きるんだって!」は出版社固有のものではなく、万物が必ず持っているもの可能性の世界の話だ。しかし、そういう説明できない直感を信じて進むことを信念や野望というのかもしれない。市場が大きい、成長する、可能性がある、そういう意味付けは誰でもできる。自分のことを唯一無二だと思って幸せに生きるためには、彼女のように説明できないものを信じることが手っ取り早いという構造に人間はなっている気がする。そういう側面を踏まえると応援したい気持ちもあるが、「革命が起きると思うから」と根拠のない根拠を発生させて、正当化し、思考し尽くした結果これを選択をしたみたいな、地に足ついてない満足感は捨ててしまった方が、ありのままだと思った。話は変わるが衰退業界のイメージで、本と煙草は同じような状況にあると思う。煙草会社の利益が全て日本のマーケットで賄われていると思っている人は「でも煙草ってこれから死ぬ市場じゃんw」とよくいう。確かに、日本では肩身の狭い会社だ。でも、五感の一部を支配するパーソナライズされた娯楽のツールという意味では、かなりスマホに近い存在だと思うし、だらだらとSNSを徘徊している時なんかの状態は得る体験としてとても似ている。この今回はあえて明確に言語化しないがこの体験は古来人間が人間として生きる上で必要なもので、触覚・味覚・嗅覚領域でいうと、視覚や聴覚のスマートフォンバイスよりも煙草会社は大きなアドバンテージがある。デバイス系ハードウェア系、五感や体験に関する、M&A・研究所、そういう組織編成。煙草の会社はこれから、こういう風に革命を進めていくだろうと、そうすればめちゃくちゃ面白そうだなと、なんとなく革命理由付けはできる。未来に起きる革命の意味付けをすることを楽しんでも良いし、野望を信じて生きることを楽しんでもいい。就職活動なんて嫌な言葉があるけど、私は私が私である意味を探し続ける長い人生のほんと一つの選択だったと思うようになりたい。私にだって、革命が起きる可能性は十分あり、自分の人生に起きる革命という野望を持っていることが今の私はとても愉快だ。現代を生きる自分の価値観なんて何も参考にならない。いろんなアンテナをいろんなところにはって、自分の中の"体験"を豊かにしたい。