センシティブな内容な気がする。私の深いところにある、グツグツとした欲求や欲望を赤裸々に書いてみたいと思う。「恋愛やセクシュアルやジェンダーの話は複雑で難しい問題だ」と最近の世の中は言いたげだ。今日になって、なんだか急に仰々しく取り上げてきたなと。だけど、別に、対して、難しくないし、とても単純で簡単なことだと思う。個人単位で世界を見れば、好きなら好き・セックスしたいならしたい・振る舞いたいなら、そうすればいい。彼氏と彼女とか、男と女とか、そうやってなんの意味も持たない枠組みや制度や固定概念や、そういう社会のシステムみたいなところ、パートナーになった人との二人の関係の、外側にある、いちばんどうでもいいけど、なんとなく周りの人が大事なんじゃないかなとおもうところ、人間が機能的に生活するために必要である気がするという、誰にとって良いのかわからないが誰かが恣意的な理由で作った何かに縛られてしまうのって、人間として生まれたからには勿体無いことだと思う。個としての意思を持つことができる人間として生まれたのだから。これはセクシュアルやジェンダーに限った話ではない。職業や出身地や人種やファッションや、そういうところ、自分を表現するための要素全てに、風潮としてある。そういう世界に、私はとても違和感を感じる。人間はきっと個人単位で見ると本当にみんなユニークで多様性あふれるものなんだろう。でも、そのユニークさが平等にある生物だ。マイノリティとかマジョリティとかいうけど、皆が等しくマイノリティであるという認識の方がしっくりくる。それを体現できるような世界を作りたい。人間が人間らしく、今ここにいる私に生まれてよかったと思えるような、世界を創りたい。そういう欲望が私にはある。

新世界より"八丁標の外"という概念がソーシャルメディア(SNS)に近いなと思っている。ちなみにこれからここに書くことは論理的な文字の連なりじゃなくてポエムです。ポエムにすると、肝心なところを曖昧にしてしまって逃げれるから良い。良くはないけど、暮らしやすい。

自分の意識と向き合う自己内省や自己表現、これのエコシステムは、自己内省とか言いつつも、自分の中だけではなんだか上手く回せない。自分だけの日記を書き続けていたら、私は恐らく自意識が肥大しすぎてきっと隴西にいた虎になる。言語化、ポエムや日記や自己内省は、頭の中にあるもやもやな思考を一旦箱に閉じ込めて濃縮してキューブのようなチャンクにして整理することだ。私は思考が発散してしまうことが多いから、普通に生きていたら、考えなくてもいいようなことを色々と並列で考えてしまって手に負えなくなる。そこでこうやってポエムだか日記だか自己内省だかわからないが、言葉でキューブを作って、思考の発散を食い止め、同時に思考の圧縮訓練をしている。つまり、無意識世界にプールされているとりとめもない思考を、キューブにしてしまって、自分の世界のとは別の場に放出しておきたい。そして、同時に有象無象に対して注意を向けることで、自分の思考のキャパシティを狭くしておきたい。

整理しているのに散らかしてる気がするけど、これで大丈夫、雲を全部吸い取って空っぽにすることも動きを封じ込めてしまうことは不可能だから、それの流れを完全に制御したい、心臓みたいに。これがソーシャルメディアで言葉を連ねる意味の一つで、新世界よりの八丁標の内と外の関係性にとても似ていると感じた。うん、読み返してみたけど、やっぱりポエムだ。ポエムってずるいよなぁ。

大学に入って、洪水みたいに新しい人に、新しい組織に、そういう出会いがあったけど、時間が経った時、ちゃんと私の手元に残っているものは、多様性を大事にしてくれるという特徴がある気がした。そういうテーマがほしい。おそらく私は、心理的安全性を求めているんだと思うけど、なんだか「ここにいていいんだよ?」を強く求めている状態を宣言してしまうのは、少し、悔しいというか、素直に認められないというか。

朝方,昨日の私は,寝る前に,フライドチキンが食べたくて食べたくて,Uber eatsが使えるようになるのを,iPhoneの画面を見ながら,今か今かと待っていたら,そのまま寝てしまっていた。昼過ぎに起きて,何か,すごく鮮やかだった夢をみていた。追われていた気がするのだけど,すごく不快な感情はなくてエネルギッシュな夢だった。フライドチキンのことを思い出して,すぐに頼んで食べたけど,あんまり美味しくなかった。

ジムでティラピスをした。身体の内側にある芯がすごく熱くなるから,もくもくもくって力が湧いてくる気がする。四肢の感覚,内臓の感覚,皮膚の感覚が,細く尖って,鮮明になる。そういえば,ここ数ヶ月で,いちばん上手く自分をコントロールできている気がする。変な下心とか,追われているものがない状態で,無心で夢中になれるものがあるの,思考がクリアだし,生きがいあるし,安定してる。メンタリティと,集中力とか理解度とか,ある程度の相関はあると思っていたけれど,こんなにも深く紐付いているとは。1ヶ月前とかに苦しんでいた情緒制御とか,もう敵じゃない。余裕。いま超強い。何にでも勝てる,時間くれれば。

あ,でも,強いて言うなら,生活が,5時間くらい深夜にずれ込んでいることが,あまり良くないかもしれない。ずれ込んだ場所でのリズムはしっかり取れているんだけど。金曜日から,7時くらいに起きないといけない生活が始まるから,ん,12時間も,時差がある。あれ,どうしよう。私,目覚ましで,起きれないんだよね。

プログラム関連のものをずっと,かなり,避けてきた。でもできるに越したことはない。プログラミングできないと人権ないって。わかっているんだよ私だって。学習サイトで昔できていたであろうことを思い出すために,基礎中の基礎から。いきなり実践にぶち込まれて死んでた時より,深い理解を実感する。よかった。荒削りだった知識が1年越しに落ち着く。よかった。

荒削りな部分,プログラムに関しても,統計や数学に関しても,認知科学に関しても,たくさんある。むしろ学問領域と言う単位ではなく,興味分野という単位で繋がっているので,トムとジェリーに出てくるチーズみたいにボコボコの穴が空いてる。昔から私はあまり基礎を理解しないまま本戦に出て,体で覚えるタイプだから,RPGだと目の前が真っ暗になってお金がなくなるし,現実だと心的負荷がすごい。

昨年度はそんな私の特性を活かそうと実践にポーンと飛ばしてくれる先輩や,教授や,上司に恵まれて,あれよあれよというまにいろんなことが,なんとなくできるようになっていた。でも同時に,負荷がものすごくて,多方に迷惑をかけて,今,元気に暮らしていてごめんなさい,という気持ちになったりもする。じめじめする。

年齢とか学年とかに囚われ過ぎて,無駄な焦燥感で,何も手に負えないみたいな状況,もう経験したくない。これからは,相対的なものではなくて,絶対的なもの,自分に足りないと思ったこと,勉強したいと思ったこと,それに真摯に取り掛かる。丁寧にチーズの穴を埋める。どうだろう,アボカドペーストとか美味しそうじゃない?

noteからhatenaに日記のお引越しをした。以前日記とかブログをしていた時はhatenaで書いてたのだけれど,機能がシンプルじゃないを理由で辞めていた。手書きに移行していた日記を,再度ネットに移行しようと考え直した時,hatenaにするかnoteにするか一応迷っていた。ここは投稿する日付を自分で操作できることが良い。ディアルガみたい。基本JST+4前後で生きてるから,時間操作がないと,私の今日はまだ終わっていないのになぁという気持ちになる。

せっかくだからnoteに定着できなかった理由をいうと,多分カルチャーが違ったから。私はダークな方が好きで,いつだって闇が観たいし,闇でありたい。キラキラ世界でうまくやるのも多分得意なんだろうけど,私があまり愉快にはなれない。

愉快ではないことをもうひとつかく,最近LINEやメッセンジャーのチャット一覧画面に広告が出てくる。もう開きたくなくなるからやめてほしい。こういうところが少し神経質になりすぎているかもしれないけど,特にLINEの治安の悪い記事のリコメンドはやめてほしい。私が20代女性だからって,下手なLINE newsのnewsでもない記事のタイトルに注意を向ける,処理能力を使いたくない。でも,こういう仕事をしていたなと思い出したし,これからもすることはあるかもしれない,世界をより愉快にできれば,私はそれでいいのにな。全然愉快になるための努力をできていない,書きながら,気づく。やっぱり書くことは大事だ。

句読点を「、」「。」を「 , 」「 . 」 で設定してる人はエンジニアか理系よりの研究者だと思う。私は大勢の人から見るととても不自然であるだろう「 ,」「 。」になれてしまっている。実験系基礎系知覚系の,心理は論文やレポートでこういう書き方をする。もう読点は 「,」じゃないと,息を止めた気にならない。句点も「。」じゃないと口を閉じた気にならない。

この世界の知識,一つ一つが点のイメージで私の中には存在する。そして私は以下のような付き合い方をしている

1) その点自体が深み(重み?)を持っている 2) 点の集合を観測して初めて知識としての体系をなす 3) 点の集合は多次元空間にある 4) 思考するときは,2次元にもどさないといけない

ルールというか,美意識というか,そういうものに近いのかもしれない。これが綺麗にはまると,本当に気持ちが良い。滞りなく神経伝達物質が運ばれており,生命は素晴らしいという感覚になる。

興味の赴くままに,ざっくばらんに,直感的に,面白そうと思った論文を図書館でまとめてダウンドードして,iPadのGoodNotesに入れている。レビューとか読むと,先人たちが地味で苦しい作業を繰り返してきて積み上がった濃い知識を,数分で整理でき,そして,その知識群がどこに向かおうとしているのかの展望を追うことができる。とても便利な世の中だ。だから,たどり着いた先に落ちている知識群から拾って,その場から一旦離れてフラフラ散歩してみる。また何かの知識の群が登場して,そこにあるものたちも拾っていく。それを繰り返していると,自分にしか見えない2次元の抽出の仕方がうっすらと見えるときがある,あ,なんかこれ繋がりそうだな。大抵の場合解像度を上げて,知識を揃えて確認すると,繋がらない。がっかりしてしまう。でもそこを無理やり繋げちゃうみたいな傲慢な遊びがまだ許されている気がして,そこが楽しかったりする。「え〜,ちょっとくらいわがまま言わせてよ〜,私にはこう見えちゃうんです。貴方の知識地図を持っていると,ここはどう見えているんですか?」よくこんな感じで教授や先輩に迷惑をかけている。最も,これ以上に凄まじく迷惑をかけている項目はあるが,今回は目を瞑っておく。