私は、手や目や耳が空いていると、ダイブするように考え込んでしまう悪い癖がある。あまりぼーっとすることができない。現在抱えている最も重大な問題について考え込む。重大な問題が悩む必要がない時が最悪だ。悩まなくても良いことで、ネガティブな手もポジティブな手も何手先もシュミレートしている。今までは手や目や耳が空いている状態を作らない消極的な制御をしていた。最近それをやめた。うまく没頭対象をコントロールできるよ積極的な制御を今は目指している。自分にも他人にも迷惑がかからないものを対象にしたい。

自分が主人公の小説を書こう、自分の人生をかけた物語を書こう、全部の自分をひとつの物質で説明させよう。というところで話は収束した。

エリートだったりとか、目立つものだったりとか、キラキラしているものだったりとか、どこかわからない有象無象の世間、大衆、モブが、「すごい」「かっこいい」と思うもの、優秀さのテンプレート、そんなものに意味はないとわかっているはずなのに、どうしてもある私の中の世間がそれを渇望してる、若さ故にかもしれないが、乾きを潤おそうとしてしまう。しかし、そこに違和感はある、ただのラベルに満足していいのか、甘んじていいのか。私の上に何かを貼り付けやがって、私というものは虚無で、私が私であることよりも優先されるものがある場所、きっと、どこかで自分を諦めたり、何から目を背けたり、折り合いをつけなければならない。私はそんな場所で自分の命を燃やせるのか。ずっとモヤモヤしていて、自分の中にある、熱、ぬるいけど確かな熱に、まだ蓋をしきれも、油を注げもしていなくて、そんな自分が最高にダサいことも知っている。そしてこの葛藤全てが、まだまだ子供だからということもわかっていて、加えてそんな現状を覆すほどの強い戦力も持ち合わせていない。悔しい。一人ではやはり勝てない。今はただ、強さと、私という集団、私という組織、私という国を動かすための神話が必要だ。

 苦しい,苦しいからやめて,私から私を逃がしてくれ,お願い許して,ずっと考えながら,この情緒を出来るだけ押さえ込むために,難しい勉強をしながら夜を越し朝を迎えた。こうやって情緒に振り回される日は,病的な睡魔が必要で,底がない水中に沈んでいく死体のようにならねば眠れないことを私は知っている。身体と意識を一度強制終了させないと,苦しみを終わらせることができないことを私は知っている。

 面白いことに,”苦しかった”という叙情の記憶はあるのだけれど,その時の叙情が,ただのチャンクになっていて,もう生の状態で開封することはできない。ただの苦しかったという記憶のチップになって,保存保管されている。消費期限のある情緒のことを,気分というのであれば,気分はものすごく意思決定や幸福受容に大きく影響力を持っていて,自分に一貫性を持たせることが難しくなってしまう。連続的ではない,積分不可能な,自己概念,それは果たして,『私』と呼んで良いのか。お前は一体誰なのか。

 最近自分の意思や感情や気分や思考が,現実世界を生きる自分のものなのか,妄想世界を生きる自分のものなのか,曖昧になって,溶けて,わからなくなっている。不快とか病的とか,精神異常とかの自覚症状は全くなくて,むしろ現実を妄想とも捉えられるし,妄想を現実とも捉えられて,都合の良い解釈,生産性の高い解釈,心的負荷の低い解釈ができるから,むしろ,心は健康になっていると思う。こうやって,文章を書いている時が,一番その気持ちが強くなるから,私の日記は,同時に小説になっている。

今日は大事な日だった。楽しみな日だった。終わってみるとそこまでうまくいっていなくて,なんだかなぁ。がっかり。つまらない。自分の人生に期待しすぎない方が良いってわかってるのにいつも期待してしまう。期待以下,予測範囲内の人生はとてもつまらない。つまらない人生は死んだ方がマシ。しかし今日を俯瞰すると,情緒をとても器用に制御できていた。感情をうまく制御しているし,設定していたタスクを十分すぎる達成度でこなした。間違いなく理想の自分だった。理想自己と,現実の自分に最適な自己がずれている,なるほど,ギミックはここにあったのか。じゃあもう欲求に素直に生きた方が良いのではないか,つまらない世界でつまらない自分を演じてつまらなく死にながら生きるよりも,欲求に素直に,美しく,ギラギラしていたい。今私には一番自分本位で最低で最高な欲求がある,大好きな人から殺されたい。

日記が書けずに2日も経ってしまった。何かをじっくり考える隙間がない2日だった。拘束されるような用事があれば時間は勝手に流れているし,夜はすぐに寝付ける。とても良いことだ。しかし,どうしてだか,今私が生きているという実感は薄くて,こんな毎日がだらだらと過ぎてしまうなら死んでいることも生きていることもさほど変わりはないのだなと思った。情けない。私は自分が大嫌いな情緒に振り回されている時に一番自分が生きている,自分がここに存在している,と感じることできる。情緒が生きていく上で不要で邪魔なものだと言い過ぎていたが,必要だから淘汰圧の中で残っているのであって,やはり,それはつまり,情緒がないと生きている実感がわかないということになること,納得がいくというか,非常に当たり前というか,一体私は何をつらつらと,文字を入力しているんだろうという疑問すら湧いてくる。私は常に当たり前なことを見失い,非常に当たり前なことに気づく,この過程を繰り返しならが,人間として生きている。

やっぱり,情緒を殺して,自我を薄く伸ばしながら,私じゃないただの器になって,生きていたい。なぜか,何もかもが上手くできない時がある。何か悩み事がある訳ではない。むしろ,全てが自分の幸せな方向に向かって走り出していて,私は幸せなはずだ,どう見ても幸せなはずだ,こんなにも条件は揃っているはずだ。でも,すごく苦しくて,何もできなくなってしまって,何も考えられなくなってしまう。何を渇望しているのだろう。薄暗い部屋のすみで丸くなって,インターネットと,荒れている情緒の海をぼーっと眺めている。眠くても,罪悪感や自己嫌悪感が積もって,寝ることはできない。酸化した不味いブラックコーヒーの飲み過ぎで,内臓に毒素が回っていてる。私という感覚が強すぎて,もう耐えきれない。制御できない自分に,他人を巻き込みたくはない。他人に迷惑をかけるような愚かなことはしたくない。自分が弱い人間すぎて,もういやだ。制御できない情緒は要らない。とにかく邪魔だ。ただの器になりたい。机に溜まったマグカップを片付ける,食器を洗う,キッチンを掃除する,生ゴミのついでに,この膿んだ情緒も捨てる。

ジムノペディが好きだ。クラシック音楽はあまり聴かないが,唯一この曲だけは,寝る前に聴くお気に入りだ。この曲がどのような背景で作られたのか知らないから勝手なイメージがある。真夜中,新月,深い針葉樹林の森,星の光が映る青い漆色の湖,表面をすくう様に吹く風,揺れる水面,森全体に湖の鼓動が広がっていく。この森には今,私しかいなくて,私は森のことは全てわかる。私は何かと想像や思考において,水を連想したり,例えに使ったりすることが多い。おそらく,幼少期を種子島で過ごしたからだ。と言っても7歳になる前に島を離れたので,あまり良く覚えていないが,おそらくユニークな特徴として,私は泳ぐことよりも潜ることが好きだった。ターコイズ色の海水,貝殻の死骸でできた海底を,小さい私は這っていた。消毒されそうなくらい塩辛い海水,ザクっとした冷たい海底に,身体を押し当てていた。長く海に浸かっていると,塩の味が濃くなっていき,水圧で耳が痛くなってくる。また,浮力に逆らいながら海底に留まりたい。来世は,森とか空とか海とか,そういう自然になりたい。私の海は,絶対に多様な生物のものになると思うし,たくさんの物語を作れると思うし,人間が何か悪さをしだしたら,しっかりと成敗すると思う。おそらく,人間に有無を言わせない大きな存在に憧れている。

ジムノペディは,第1番から第3番までの3曲で構成され,それぞれに指示があるらしい。1番から順に,ゆっくりと苦しみをもって,ゆっくりと悲しさをこめて,ゆっくりと厳粛に。